気候変動は、二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスによって起こることから、科学的な問題として捉えられたり、対策を巡る政治的な側面も持ち合わせていますし、また、炭素税やキャップ&トレード制度の導入、再生可能エネルギーの導入による新市場における雇用促進などの経済的な面などが注目されています。
このすべてが「人間中心」の観点から気候変動問題を捉えています。しかも「先進国中心」で気候変動問題の対策がなされてきています。そして、それらの対策は「今の世代」のことを中心に考えて作られています。
果たして、それでいいのでしょうか?
その答えを見つけるための倫理的な問いかけをするのが、「気候倫理/気候正義」です。気候倫理/気候正義は、気候変動によってもたらされる影響を、倫理、モラル、公正の問題として捉え、気候変動対策にその影響が公平・公正に分配されているのかを問いかけます。
気候倫理/気候正義の基本的な柱は3つあります。
- 同世代間の平等(先進国 vs. 途上国)
- 異世代間の平等(現世代 vs. 未来の世代)
- 人間以外が持つ平等の権利
1. 同世代間の平等(先進国 vs. 途上国)
そもそも、人間活動に起因する平均気温の上昇がもたらす世界的な不利益は、その原因を作った者が平等に負うべきであり、その他の者を巻き込むのはモラルや倫理に反します。簡単に言えば、「よその家まで散らかすなや。散らかしたヤツが片付けろや。」という話です。
ところが、産業革命以降の温室効果ガス排出量は、欧米や日本など一部の先進国が圧倒的に多く、近年になって中国(現在は米を抜いて温室効果ガス排出量世界一)やインド、ブラジルなどの排出量が増えたといっても、歴史的にみればまだまだ先進諸国が過去に排出してきた量には及びません。
そして、気候変動による気温上昇が招く負の影響(海面上昇による国土の水没、ハリケーン・台風などの熱帯性低気圧による豪雨や洪水、熱波、干ばつなどの異常気象による被害、永久凍土融解による住環境の破壊、食糧危機、病気の蔓延など)を最も受けるのは、経済的に貧しい途上国の人たちです。また、途上国だけではなく、先進国内においても、人種や民族、収入などによって受ける影響は違っており、有色人種、貧困地域に住む人々は、そうではない人たちに比べてより大きな負の影響を受けます。
これらが、同世代間の不平等の代表的な例で、このような問題から、国際的な気候変動対策の取り決めの際に、「グローバルノース(北半球の裕福な先進諸国)対グローバルサウス(南半球の貧しい途上国)」の対立に繋がり、交渉が進まない原因になっています。
2. 異世代間の平等(現世代 vs. 未来の世代)
次に、異世代間の平等についてですが、今を生きる私たちの世代と、数十年先、数百年先、数千年先を生きる未来の世代は、今よりも悪くなっていない環境から、今の世代と同等の利益を享受する権利を有するという考え方です。気候変動以外に話題になっている環境問題で例を挙げると、核廃棄物が該当します。現在の世代がエネルギー(利益)を得るために、原子力発電によって生み出される毒である核廃棄物を、十万年後の世代にまで管理させることは倫理的に正しいことなのか、という問いかけです。恐らく、数千年後、数万年後の世界に核技術はないことでしょう。古代人が使った愚かな兵器及びエネルギー源として歴史に残っているはずです。未来の世代は、その核廃棄物から何らの利益を得ることなく、全く関係ないのにその場所に生まれて生活しているという理由だけで毒の管理をしなければいけなくなります。果たしてこれは現世代が未来の世代に残していいものなのでしょうか。
気候変動も同じです。現世代(産業革命以降の世代)が、化石燃料を主なエネルギー源としたために排出し続けてきた二酸化炭素を始めとする温室効果ガスが原因で、未来の世代は望みもしない高気温の世界で、様々な影響を受けることになります。
太平洋やインド洋などの海抜の低い島しょ国は、海面上昇によって国土を失い、それらの国々の国民は、国内の高地か国外への移住を強いられることになるでしょう。それも遠い未来ではなく、海面上昇の速度によっては、今世紀後半から来世紀に気候難民として他国に移住する人が出てくると思われます。その他にも、同世代間の平等問題で挙げた異常気象や食糧危機、先進国と途上国の別を問わず海抜の低い地域に住む貧困層への被害、伝染病の蔓延などがさらなる気温上昇によって起こると考えられており、温暖化の原因になる活動をしていない未来の世代がその悪影響を受けることは倫理的に問題があるのではないかと言われています。
言い方を変えれば、私たち現代を生きる世代は、気候変動による負の影響を最小限に抑えるために最大限の努力をする倫理的な責任を問われているのです。
3. 人間以外が持つ平等の権利
ここまでは、すべて人間の立場から見て、同世代間と異世代間の平等について話してきましたが、では、人間以外の「種」が地球温暖化によって受ける影響に対する倫理的責任をどう考えればよいのでしょうか。
まず、この地球という星は人類だけが自由にしていいものなのでしょうか?人間を地球の管理者とし、人間が自然環境を自由に利用していいと考えることを「Anthropocentrism(人間中心主義)」と言います。それに対し、環境倫理では「Biocentrism(生物中心主義)」「Ecocentrism(環境中心主義)」など、人間以外の生物や自然環境を中心に倫理問題を考えます。つまり、動物や植物、山や大地にも人間と平等に扱おうという考え方です。ディープ・エコロジーやランド・エシックス(土地倫理)などが例として挙げられ、主に環境保全のために用いられます。
基本的には、「感じることができる種」を倫理的考慮に入れるとする考えに基づいて、その範囲をどこまで拡大するかが問題になります。ほ乳類はよいとして、は虫類、植物、自然環境と、いったいどこまでを倫理的考慮に入れるのかが議論になります。
気候変動問題に当てはめると、人間以外が気候変動によって受けている悪影響(海洋酸性化と海洋温暖化による珊瑚礁の死滅や白化現象、ホッキョクグマに代表される生物種の大量絶滅危機、山火事や野火による森林の消失など)に対する人間の倫理的責任と、今後の環境保護に対する責任範囲などが問われています。
気候変動対策について国際会議で交渉する際に、主に人権保護団体や環境保護団体がこれらの倫理的観点を考慮するように要求するのですが、実際には同世代間の平等問題にフォーカスが当てられることがほとんどで、なかなか未来の世代や人間以外の生物や自然環境にまで範囲が広がることはありません(過去の排出量を考慮に入れると、先進諸国と発展途上国間における過去と現在の異世代間の平等問題ということはできるでしょう)。
気候変動問題は、圧倒的に経済問題として扱われてしまいがちですが、国際的な舞台でも、小さなローカルコミュニティでも、ここに挙げたような倫理的問題を考慮に入れた議論が必要です。
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