【独り言】科学者と人間のラインはどこに?

  気候変動のような、他者の「世界観」や「イデオロギー」に振り回される科学分野の研究者たちを日常的に見ていると、科学者はいったいどこまで「科学者としての自分」を優先させなければならず、どこに表情豊かな「人間としての自分」が顔を出しても許されるラインが引かれているのかを考えさせられる機会が多くなります。

  僕自身も端っこに座っている科学者として、また、環境(気候)正義や環境(気候)倫理を学ぶ者として、どこまで「客観的な事実」に基づく定説や推測だけを語る「客観的な自分」でいなければならないのか、どのラインを超えれば、これまで学んできたそうした「客観的事実」の蓄積によって養われてきた自分自身の感情や倫理観に基づいた言動が許されるのだろうという疑問は常に持ち続けています。

  フランスの通信社であるAFPの記者が、そういうことを改めて考えさせられるCOP21に関連した興味深いコラム(【AFP記者コラム】気候変動、コップの水は「まだ半分」か「もう半分」か)を書いていました。心が動かされた部分や、記事の内容の一部に補足したい部分があったので、一部を引用しながら、自分の気持ちや記事では触れられていない事実関係などを整理してみようと思います。

化石燃料の使用をやめない限り、私たちがふるさとと呼んでいる地球は、人類にとって過去1万1000年よりも過酷な場所となっていく。現在、私たちは19世紀半ばに温暖化が始まったときよりも摂氏4度高い世界に向かう、特急電車に乗っている。そんな世界には誰も、絶対に、絶対に、絶対に、向かいたくないはずだ。

  今後上昇する気温の幅は約4℃ということで問題はないと思うのですが、僕たちが乗っているその「特急電車」から、僕たちは必ず降りることになります。それは僕たちが望もうと望むまいと、人間の命に寿命がある限り、このAFPのコラムを読める人間がよっぽどの長寿でない限り、僕たち自身の子どもたちやその子どもたちをはじめ、何十億人というまだ生まれてもいない多くの命を残して、暴走する特急電車を見送ることになります。

  それでもまだ化石燃料を数十年使う計画で気候変動対策を作成し実行することは、原因を作り出し、問題を悪化させてきた世代として、倫理的に許されることなのでしょうか?

国連(UN)の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」に携わる3000人強の気候学者たちによれば、安全な世界にとどまるためには、 気温上昇を2度未満に抑える必要がある。

  2℃未満に抑えれば、世界の安全が保証されるわけではありません。たとえ2℃未満に抑えられたとしても、「気温が3℃上昇した世界よりも安全」なだけで、大気が不安定で異常気象の頻度や強さが増した「今よりも安全ではない世界」を、僕たちが未来の世代に残すのはもう決まっていることなのです。

  2℃未満や1.5℃未満ではなく、0.1℃たりとも無駄に上昇させないための最大限の努力をするべきで、「パリ協定」はそれを満たしてはいません。「現実的」とか「理性的」という言葉で、「厳しい現実に晒されている弱者たち」を切り捨てていることから目を逸らしてはいけないのです。

  でも、1.5℃未満や2℃未満がどれだけ困難なことかを無視して楽観論を展開することはできません。

2度未満目標は、ほぼ確実に達成できないということについては、誰か触れただろうか?地球はすでに1度上昇しており、たとえクリスマス前にCO2を排出するすべての装置の電源を切ったとしても、さらに0.6度の上昇が確実視されている。科学者たちはこれを「既定の温暖化」と呼んでいる。

  この「0.6℃の既定の温暖化」については別記事にしてあります(『今すぐ二酸化炭素排出量をゼロにしても、世界の平均気温はあと0.66℃上昇する』)が、既定の温暖化を踏まえた場合、1.5℃未満を達成するのは、今あるテクノロジーだけでは不可能と言い切っていいと思います。

問題は、私たちが気候変動についてどう語り、生存可能な未来をどう描くか、の違いなのだ。

  これは以前に記事にしましたが、気候変動の原因や責任の所在などを追及するようなメッセージではなく、気候変動対策がよりよい社会作りに繋がるというポジティブなメッセージを発信することが、イデオロギーを超えて効果的に対策を進める鍵になるということは、最近特に言われるようになってきましたし、「原因ではなく解決法を共有することが重要で、そのためには立場の違う人たちとのコミュニケーションが大切」と、「climate communicator」として活躍する気候科学者も述べています。でも、すべての気候科学者がこれを実践するのは簡単なことではありません。

しかし大半のジャーナリストにとって、特に通信社の記者にとって、それはタブーだ。私たちの仕事は「メッセージ」を発することではなく、ニュースを伝えることだ。同じことは科学にもいえる。科学的手法の一貫性は、バイアスの不在にかかっているからだ。それが気候変動となると、ニュース編集室でも科学者たちの間でも、その暗黙のルールが変化することに私は興味をかきたてられてきた。

(中略)

気候変動の悲惨な現実があまりに大きく迫ってきたために、その線引きは崩れ始めた。何人かの著名な気候学者たち、例えば米国のマイケル・マン(Michael Mann)氏やジェームズ・ハンセン(James Hansen)氏は、活動家になった。

  できることならば、「科学的事実だけ」を発信していたいんです。もしも二酸化炭素による気温上昇が地球環境とそこで暮らす人間をはじめとする生き物の生活になんの影響も与えないのだとしたら、「二酸化炭素濃度がどれくらいになったら気温が何度上昇するのか(気候感度)」や「北極の海氷と中緯度地域でおこる異常気象の関連性について」「北極の温暖化と極渦、ジェット気流の関連性について」「直近約18年の気温上昇の鈍化の原因について」などはとても興味深くて楽しい研究分野だと思います。

  でも、気候変動の科学や、気候変動によって生まれる不利益を環境弱者が不公平に受けている気候正義の問題を学べば学ぶほど、僕たちの周りの自然環境に起こっている変化や、未来の気候とその影響を受ける環境や人間・生き物に確実に降りかかる危機的な状況が見えてきます。それらの「実際に起こっている現象や出来事、過去から現在までのデータを基にしたシミュレーションから得た客観的事実」を、科学者として、研究者として、ただ淡々と伝えるのは難しいです。

  科学者も人間です。研究をしながら、気候変動の危機を訴える活動を続けている気候科学者の多くは子を持つ親でもあります。彼らが見ているのは、自分の子どもや孫が暮らす未来です。その未来が現在よりも間違いなく過酷な自然環境になることを、彼らは知っているんです。子どもたちのためによりよい未来を残したいと親が願うのに、科学者であるかどうかは関係ないと思います。

  また、自分たちが何十年もかけて積み重ねてきた研究から得た多くの結果が、人類が今のままの生活を続けると、数十年から数百年後までには多くの生物が絶滅し、人類の存続も危ぶまれるほど環境が激変する可能性があることを示している場合に、何のメッセージも発しないのは倫理的に許されることなのでしょうか?

  「気候科学者は、科学的事実だけを発信していればいい。政治的発言をするな。」とよく言われます。でも、1970年代から、気候科学者たちが気候変動によって起こりうると伝えてきた「科学的事実」は政治的メッセージによってかき消され、気候科学や気候科学者に疑いの目が向けられてきました。

  その間、気候科学は進化を続け、より正確でより精密になってきたデータを基にシミュレーションの信頼度を高めてきました。その結果が、最大限の努力と犠牲を払ってでも避けなければいけない未来を示しているのです。

  気候科学者として究めてきた結果が、人間として行動を起こさずにはいられないものだったんです。そしてそれは、感情を持つ人間としてとても自然なことだと思います。

  積極的に気候変動の危機を伝え、行動を促すメッセージを発信している多くの気候科学者たちが、厳しい批判(言いがかりや嫌がらせ)を受けながらもメッセージを発信し続ける動機としてよく同じことを言います。

  「いつか、自分の子どもや孫たちから『こうなることを知っていたのに、私たちのために何もしてくれなかった』とだけは言われたくないんだ。」


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